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中央線。プロジェクトメイクオーバーをやる。フルバ204話透をトレースしたような由希のすがたに交換のすべてがある。私も透になりたい。透にであう前の由希はきっと真知をすきになれなかった、思えばすべてそのようなタイミングに成り立ってる。中野で座る。パラキス29話を読みながら新宿で降りて湘南新宿ラインのホームへ。ジョージ母どうしようもないけれど初対面の息子の彼女にめちゃくちゃ言われも反発しない浮世離れ具合心地よいものがある。ホームで10分待つ。すべての漫画を読み終えてしまって暇だ。グミ買っとけばよかった。電車がやってきて、キャンパスを持ったひとが出てくる。細い腕ででっかいキャンパスを抱えて。前に座ったサラリーマンのトートバッグ「働いて笑おう」とプリントされててこわい。向こうのひとのスニーカー、このあいだ加賀田さんが履いてたやつだ。働きマン9話、無料チャージ分終わってしまった。みんなが眠り出す。私がリュックを開けたら一瞬起こしてしまった。握りしめた拳を吊革の三角のなかにおにぎりみたいにぴったり押し込めてるのを眺めてたらなんだか不安なきもちになってきた渋谷で人びとがたくさん降りては乗ってくる。湘南新宿ライン向かい合う家族のなかに一人入るの気まずいよね、わかる、携帯を見るしかない。Twitterを流し見【特集】僕を釣りに誘ったあの日、父は母を殺していた…“死刑囚の子となった青年の凄絶半生 自殺未遂、自戒の刺青「絶対に許せない。けど…」交錯する父への思い− 愛知県名古屋市に住む大山寛人さん(35)。彼の父親は、大山清隆死刑囚(61)。1998年に自身の養父を、さらに2000年に妻の博美さん(当時38)を相次いで殺害した「広島連続保険金殺人事件」で、2011年6月に死刑が確定しました。 母を殺した父への憎しみと、殺された母への悲しみに襲われる中、“人殺しの息子”となった寛人さんには厳しい現実が待ち受けていました。世間からの誹謗中傷、最愛の母を救えなかった後悔からの自傷行為、自殺未遂…その凄絶な人生と、いつ刑が執行されるか分からない父に、今思うこととは―。 大山寛人さんは、家族も友人もいない名古屋市に来て、14年になります。 Q.今はどんな仕事をされているのですか? 「風俗系の仕事、風俗店員です。一般職をやっていた時期もありますが、結局父親のことがばれてしまって。“人殺しの息子”という特殊な立場の人間を雇うことは難しいという形でクビになることが多くて…」(大山寛人さん)  全ては23年前、あの夜から始まりました。 2000年3月2日、大山清隆死刑囚は12歳の息子を夜釣りに誘いました。 「僕が急いで釣り具を準備して車に乗り込むと、お母さんは助手席のシートを倒して横になっていました。だから僕は、眠っていると思っていました」(寛人さん)  しばらくして港に着くと、母親を車内に残し、寛人さんと父親は、離れた場所で別々に釣りを始めました。 「お父さんから『今、海に何かが落ちたような音が、ボチャンという大きい音が聞こえなかったか?』と言われました。すると、ある異変に気付いて…。助手席で眠っていたはずの、母親の姿がなかったです。その瞬間に僕は、一気に血の気がひいたというか、青ざめました」(寛人さん) 横浜。みなとみらい線のホームへ。元町・中華街行に乗る。「警察の捜索が始まり、ほどなくして海面に漂う母が見つかりました。 「お母さんは海からすぐに引き上げられたですけど、本当に人形のようにぐったりしていて。お父さんは、『お母さんは大丈夫だから』ということを繰り返し僕に言っていましたね。だからもう、ただただ必死というふうにしか見えなかったです」(寛人さん)日本大通り